総合建設業、鋼構造物工事業 - 新潟県上越市

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死んで花実が咲くものか

妙高山に3回雪が降ると南葉山に雪が降る。南葉山に3回雪が降ると平場に雪が降る。昔から言われてきた。それからすると、雪が降るのはもう間近ということか。
会社の周りに植わっている落葉樹は、色鮮やかに纏っていたその葉をすっかり落とした。その様は枯れ木のようであるが、来春までの休息期間である。
杉の木は常緑樹。冬になっても葉を落とさない。しかし、長らく放置したままで、遠目には枯れ木のように見えるものも散見される。移植が適切に行われなかったり、冬の風、雪に晒されて弱ってしまったためか。
「枯れているなら、切ってしまおうか」。そばに行って、木を見上げる。よく見ると、ほんの数本だが、尖った葉が枝の先についているではないか。そんな木が何本かある。見た目99.9パーセント枯れている。それにしても生きようとする力は大したものである。「生き返ったわ」私はそう思わずつぶやいた。
私はそんな木々を自宅でも見てきた。柿の木は成長が早く急速に枝を伸ばし、葉を茂らせる。なので、数年おきに丸坊主にするが如く、思い切り枝落としをする。翌年は葉をつけない。正に瀕死の状態に追い込んでしまうのである。実が生るのは3年後くらいか。その時の実のつき方といったらない。たわわに実をつける。枝がしなるほどに。
木は話せない。しかし、木だって死にたくないのである。生きたいのである。必死に生きようとしているのである。木は無言で、身体で、私達にその気持ちを伝えてくれている。

先日、SNSに自殺したいと投稿したことから、本意ではなかったのに9人の方が殺害されるという痛ましい事件があった。
「疲れてもう死にそう」、「死んだほうがマシだ」、「死ぬ気でガンバロウ」など『死』を用いる時がある。それはイコール本当に命を絶ちたいという意思表示ではない。大抵は「私はこんなに一所懸命頑張っているんだよ」ということを誰かに聞いてもらいたくて、認めてもらいたくて、その表現方法として用いているのではないか。
今は怖い時代になった。安易に「死にたい」なんて言ってはいけない。言うにしても、知らない不特定多数の人に絶対に言ってはいけない。知らない人に付いて行ってはいけない。ということだ。
因みに、私は死ぬことが怖い。死にたくない。木々のその逞しい生命力を見習うべく、永遠に生き続けたいと強く思っている。

死んで花実が咲くものか
生きていてこそいい時もあるので、死んでしまえば、万事おしまいである。
(デジタル大辞林)

投稿日|2017.11.16 社長ブログ