今日は79回目の終戦記念日です これからのことを考えました
『何故、日本はこんなに貧乏な国になってしまったのだろう?』こういう話はよく聞きます。私もみなさんには何度も話をしています。
私は、『バブル景気前夜』に社会人となり、翌年から一気に狂気に満ち溢れた、あの『バブル景気』を実体験した世代です。(何が狂っていたのか?ネット等で調べてみてください。)
ここでは、当時の日本と、外国との関係について述べたいと思います。偏見、侮蔑的だとは取らないでください。
私は、初めての海外旅行は、1988年2月、23歳の時です。成田空港から、北京に入り、天津、長春、哈爾濱そして、満州里。国境を越えて当時のソ連邦ザバイカリスクに入りました。
チタ、イルクーツク、モスクワ。ここまでの所要日数は、7日間。蒸気機関車に乗ってのシベリア鉄道横断の旅でした。(モスクワから、南下して、ルーマニア、ブルガリア、トルコなどを巡る旅を続け、結果的に、世界一周しました。)
道中、多くのソ連人(後にソ連が崩壊して多くの国が独立しましたが、当時は一括りでした。しかし、歴史の中で自分は何者なのかというidentityはしっかりと持っていました。)と、たくさんコミュニケーションをとりました。
ボートのヨーロッパ選手権に出場したという、モスクワ大学の学生。一緒にソ連国家と、君が代を歌いました。
ヤロブスカノ大学へ通う女子大生。彼女とは、日本とロシア文学について語り合いました。
コマツの重機に乗って仕事をしているという男性。自慢げに、日本製の時計を見せてくれました。
戦車の絵を描いている男の子。プレゼントしてくれました。
タバコ1箱とキャビア1キロと、交換している男性がいました。
途中下車した駅で、日本人を見るなり、ワァーワァー言っている女性たちがいました。(そこには抗日パルチザンの像がありました。)
「チェンジマネー?」と言い寄ってくる男性がいました。ルーブルは国際的に価値がありません。『円』は強かったです。
イルクーツクのデパートでは、二眼レフのカメラが陳列されていました。八ミリビデオが陳列されていました。当時の日本では、既に古典的な機器でした。
様々な人たちと出会いました。日本人は、彼等にとって『西側の人間』、『悪い人たち』です。(仕方がありません。そのように教育されているのです。私と話をして、日本人は、言うほど悪くないと感じてくれたことでしょう)でも、手の届かない『憧れの人たち』なのでした。
彼らと過ごした1週間は、私の、日本人としてのidentityとそして、prideを、明確に呼び起こしてくれました。
日本人であることの優越感を、たっぷりと味わうことができました。それほど、彼の国等と日本国の経済力、生活水準の差は歴然とあったのです。
しかし、予兆はあったのでしょうが、誰もが認めたくなかった『バブル崩壊』が起こり、その後の『失われた30年』を経験することとなります。
今感じること。『バブル崩壊後』の日本、日本人は、「茹でガエル状態」で今日まで来てしまったということ。もう元には戻れないということ。
先日ある東南アジアの国へ行って来ました。お昼ご飯は、一人2,000~2,500円。夕ご飯は、一人7,000~8,000円。これが当たり前です。普通のレストラン、食堂です。高級料亭、三ツ星レストランではありません。お酒は、1本300円のビールを1本飲んだだけです。ワインは飲んでいません。
帰国前日は、『サイゼリア』へ行きました。値段は、日本の2.5倍程度です。普通の家族連れ、若者が普通に食べています。服装は暑いからなのでしょう、Tシャツ、短パン、サンダルです。日本人が、勝ったなと思えたのは、身なりくらいのものでした。
これが現実です。現実から逃げることはできません。今後益々世界の中で競合、協力する機会が増えるでしょう。というより、彼らと共に歩んでいかなければ立ち行かなくなることでしょう。
嘗(かつ)て、Look East(日本に学べ)と言われた時期がありました。今は、こういうべきでしょう。Look South ,Look Asiaと。
正に、今の日本人に求められていることは、第二の明治維新でしょうか?『教えを乞う、学ぶ心』を持つことだと思います。いつも言っている、『謙虚に、驕らず、高ぶらず』ということにつながります。
投稿日|2024.08.15 社長ブログ