総合建設業、鋼構造物工事業 - 新潟県上越市

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夢のあとさき

 小学校1年生の時の文集に書いた『将来の私』。『植物大博士』。
 6年生の時は、日本史の歴史学者。
 高校生になってからは、政治家。
 そのために、まずはマスコミ関係へ行って勉強して、それから新潟4区(30年前、上越市はそうだった)から衆議院議員に立候補して、代議士になって、それから、総理大臣になって国を変えてやる。などという壮大な夢を描いていた。
 予定通り、就職活動は、マスコミ関係を受けた。(当時は試験は後回し。面接がまず最初にあった。但し、3年生の秋頃、マスコミセミナーの受講者で、成績の良い学生を採ってしまうという『青田刈り』という制度があった。私はそれには全く引っ掛からなかった)新聞社、通信社、公共放送、色々受けだが全部落とされた。
 会社の研究もせずにただ受けに行くだけだから、質問の意図を解せず適切な受け答えができない。回答に窮することもしばしば。これではだめに決まっている。自分の怠慢は棚に上げて、「うーん、マスコミは向いていないのかな?」くらいの自己分析しかできなかった。
 「仕方がない。メーカーを受けてみるか」。3社受けた。2社受かった。前述した将来の『夢』はもちろんあった。
 しかし、若者の心は移り気だ。海外で働きたい。活躍したいという気持ちも湧いてきた。某社の社長面接。(そこは、大きな事故を起こし、経営的に厳しい状況になりつつある会社だった)「私が社長になって、この会社を立て直します!」ずいぶんと大きなことを言ったものだ。何の経験も、実績もない22歳の少年が。でもそれが良かったのか、『内定』は頂いた。
 もう1社は、日本有数の化学メーカー。5次面接まであった。入社2~3年目くらいの若手社員から順繰りに面接官の職位が上がっていく。受験した学生は、何百人いたことだろう。最終的に15人ほどが『内定』をもらった。
 この経験から感じたこと。面接を繰り返す中で、自分は試されているということ。
 そして、自分という人間は、どう見られているのか、どう評価されているのか、結果として、内定がもらえたことは、何をこの会社から期待されてのことなのか。
 同時に、自分のやりたいこと、なりたいと思っていたことと、自分の適性、周りから期待される『私』という人間像は、違うのだということを学んだ。
 それでも私は人事課長に言った。「来年、某新聞社を受けますので、広報部へ配属して下さい」と。全く怖いもの知らずというか、お子ちゃまだった。呆れていたことだろう。
 若者は、たくさん『夢』を見るべきだ。但し、現実を直視しながら。
 今と昔の最大の違いは、日本が成長していく社会と、縮小していく社会との差。今は、「ジャパニーズドリーム」は難しい世の中だということ。
 ひとつのことをこつこつと、長くやってきた人を見て、幸せな人生を送った人だなと感じさせる人が多いと思うこと。
 あれから35年経って、少し大人になった『私』が感じている『現実』だ。
 でもね、今も「もうこんなもんでいいや」と言えない『少年のこころ』を捨てられない私がいることも現実だ。最後ではない。集大成ではない。まだまだ一つの通過点でしかないと思いたい、夢のまた夢のような、いや
 夢にも描けなかった夢の実現に挑戦したい。そう思えるところに来た。そう思える私がそこにいる。
 やれるか、やれないか。今か、時期尚早か。全ては、私を含めたサトウ産業に集う仲間の幸せのために。
 近いうちに答えを出したい。

投稿日|2020.01.16 社長ブログ